理念
法人の理念
ミッション
ジェンダーの
とらわれとは?
性別とセクシュアリティの多様性
法人の理念
すべての人々に対して、ありのままが大切にされる男女共同参画社会の実現を図る活動に関する事業を行い、地域社会の活性化と、誰もが人権を認められ、エンパワーされる社会づくりを理念とする。
ミッション
対立を力に 批判を共感に
あきらめを希望に
対等な関係を築き
新しい時代を切り開こう
あなたと出逢い あなたと共に…
ジェンダーのとらわれとは
ジェンダーとは、社会的・文化的に作られた性差のこと
そして、ジェンダーバイアスとは、その「〜らしさ」から生まれる偏見や先入観のことです。
ジェンダーフリーとは、「女性的な人」「男性的な人」を否定的に捉え「中性的な生き方」を 広めようとするものではなく誰もがありのままの自分を生きられる社会への提案です。
すべての人が、「女のくせに」「男だから」という社会からの抑圧やメッセージの中で育ち、多かれ少なかれジェンダーを身にまといながら、そこに気づけないで日常を送っている訳です。
そしてそのことで、自分の本来持っている内なる力が見えなくなったり抑圧したりといった、様々な問題が生じています。その上自己への抑圧は、他者への偏見や先入観や圧力へとつながっていく こともあるのです。
また、女と男の「〜らしさ」を比べてみると、そこに大きな『力関係』が存在することが見えてくる はずです。
「優しく、依存的な女らしさ」と「強く、泣かない男らしさ」は対照的な性質を持ち、 おのずと社会の中の権力関係が出来ていきます。
「寛容さ」「忍耐」「母性」を教え込まれる「女らしさ」は、時として自己犠牲や他者依存的な抑圧となり自尊感情が育たないまま、人権を侵害されるような場面でも自分が悪いのだと思い込み、 本当の自分を 生きることが出来なくなってしまったり…
「強さ」を肯定的に教え込まれる「男らしさ」は、「強さ」「力」「暴力」を肯定的に捉えてしまい「権力」 への固執や「暴力的解決」へ依存してしまうようになったり、「優しすぎる」あまりに「男社会」の中で 偏見や差別を受けながら本来の感性が育たないまま力を無くしてしまったり…
ですからそれらの問題は、個人の資質の問題ではなく、社会問題である訳です。
ここで重要なことは、まずは自分自身のジェンダーと向合いながらジェンダーに敏感な視点を持つ こと、そして、ジェンダーーに敏感な視点を育てる仕掛けやシステムづくりを確実に具体化し、『対立』や『非難』ではなく『受容』や『共感』で互いの内なる力に働きかけることです。
社会のすべての問題の根っこの所に、ジェンダーが潜んでいます。
些細な区別もいつの間にか、大きな差別 へと発展していく可能性のある芽です。
誰もがありのままの自分を、そしてありのままの他者を受容できる「多様性社会の実現」に向かって、ジェンダーと向き合っていければと願います。
2001年1月 かえこ
「性別」とセクシュアリティの多様性
「あなたの性別は?」とたずねられれば、たいていの人は容易に「自分は男」とか「女だ」とか答えます。
でも、それは本当にそんなにも端的で自明のことなのでしょうか?
通常「性別」は、出生時に身体のある部分の形状を根拠に(つまり現場での運用に即して言えば、オチンチンがあるかないかによって)、男女いずれかという具合に二元的に付与されます。
ただ、それならば「性別」とは“身体のある部分の形状“それだけでしかないはずです。
しかし現実には、その属性は社会生活のあらゆる場面にかかわってきます。
男は男らしく、女は女らしく—-。いわゆるジェンダーの問題ですね。
となると、ある人の“身体のある部分の形状“と、その人が社会生活において男らしいコースと女らしいコースのいずれを希望するか(あるいは適性があるか)は、じつは本来はまったく独立した別個の事象だと言うことが可能です。
一般に「身体の性別と心の性別が一致しない病」として知られる性同一性障害が、しばしば問題となるのも、この両者を分かちがたく関連付け、一致しているのが正常であり正統だとする社会通念が背景にあるのです。
本当は、ほとんどの人がこの通念に沿うように自分を無理に合わせているだけで、もしも“身体のある部分の形状“にかかわらず、自分にとって最も好適な生き方が選択できるのなら、すべての人がもっと自由に、どこにでも行けるし何にでもなれるのではないでしょうか。
このほか「性別」に関しては、誰とどんな恋愛をして幸せを感じるか、といういわゆる性的指向の要素も挙げられますが、異性とのノーマルな性行為を前提とするものだけを正常ととらえるのがまちがいであるのは言うまでもありません。
同性愛と異性愛という対立的な概念自体、便宜上のものです。
自分の好みにしたがって誰かを好きになるのは、そのすべてが自然なことなのです。
このように、ひとくちに「性別」と言っても、ある人に対し【身体を基準に付与される性別】、その人自身がどうありたいと望むかという【本人の意思に基づく性別】、そしてその人の【恋愛対象にかかわる性別】などといった複数の軸線が存在します。
これらそれぞれについて、単純に「女」か「男」かを決めただけでも、2の3乗で8種類の「性別」があることになりますし、「間のこのへん」をもOK※だとすれば、その組み合わせはまさしく無限です。
そして、こうした《その人の性に関するありようの総体》のことを、いちばん広い意味での『セクシュアリティ』と呼びます。
ひとりひとりのセクシュアリティは多様であり、それは簡単に2種類に分類できてしまうものでは決してありえないのです。
※この場合の「間のこのへんもOK」というのは、【本人の意思に基づく性別】や【恋愛対象にかかわる性別】はもちろん、【身体を基準に付与される性別】にもあてはまります。
一般には身体にかかわる性別というのは“オチンチンがある“か、それとも“ない“かに基づいて2種類に単純化されがちですが、現実には「インターセックス」などと呼ばれる、典型的な男女の身体にあてはまらない人々も相当数存在します。「性別が2つなのは身体的な性別が2種類なのが根拠」というのは幻想にすぎません。実際には身体的な性別自体が多様なのです。
そして、そういうケースであっても、日々の生活は「女」か「男」か、いずれかになっておこなうことが社会的な約束事として強いられているのが、この今のわたしたちの世界なのです。典型的な「女」や「男」にならないことは不利であり、そうなれないことが劣ったものとみなされるルールの下に置かれていると言ってもよいでしょう。
なお本稿では、そのようなジェンダー化を当然とする趨勢に批判的な視点から、いわゆる「身体の性別」を【身体を基準に付与される性別】、身体に対比してよく言われがちな「心の性別」は【本人の意思に基づく性別】、やはり単純に「女」か「男」かが考えられてしまいやすい「性的指向」については【恋愛対象にかかわる性別】と表記しました。
文責:佐倉智美(SEAN理事)/2009年1月