講演録 2008年8月6日(水) 19:00ー20:30
「育ちの中の依存と自立の関係性」
遠矢 家永子(NPO法人SEAN代表)
於:財団法人 近江八幡市人権センター
司会
今日は8月6日、63年前、広島で原子爆弾が落とされた日でもあります。年々風化していきますが、忘れ去ることが怖いのではないかと思っております遠矢家永子先生は、女性の人権でも来ていただきまして、2回目ですが、ご紹介をさせていただきます。PTA、子ども会役員、委員、造形教室、お話の会主宰など、自らの子育てを通して活動にかかわられました。1997年、保育サポートグループSEANを結成されました。SEANの事業としては2002年、子どもを対象にしたSEプログラム・人権教育を開発されまして、現在もいろんな学校を回られて子どもたちにワークショップを提供されています。女性のエンパワーメント、子どもの人権、セクシュアル・ハラスメント、DV、保育、子育て、絵本、NPO企画運営など多岐にわたるテーマでワークショップや講演のために全国を回っておられます。幅広い活動の中で、今日は子どもの人権ということに焦点を当てていただきまして「育ちの中の依存と自立の関係性」についてお話をしていただきます。それでは遠矢先生、よろしくお願いいたします
遠矢
『皆さん、こんばんわ。NPO法人SEANの遠矢家永子と申します。前回も女性の人権ということでお話をさせていただきました。その講座にご参加いただいていた方、手を挙げていただけますか。3人ほどですね。今、簡単にご紹介いただきましたが、もう一度NPO法人SEANとはどういう団体か、私はどういう立場でここに立たせいただいているかをお話させていただきます。
1997年、11年ほど前に発足した団体です。2001年、法人格を取得しています。営利を第一にしているわけではなく、理念を第一に活動している法人格を取得している団体の代表を務めています。理事長と事務局長を兼任しているという立場です。SEANというのは「誰もがありのままを大切にされ活かされる社会の実現を目指している」ということで、誰もが当然、今、ここにお座りの皆さんも含めて、私も含めて、その人たちがどういう性別であろうが、障がいがあっても、なくても、どこに住んでいても、肌の色がどういう色であっても、どういう経済状態であっても、すべての人が、誰もが大切にされ、活かされる社会を目指しています。SEANはSelf Empowerment Action Networkの頭文字です。Self Empowerment、今日の主題の中で重要な話になってくるのでお話しますが、emというのは接頭語で、「何々の状態にする」という意味です。パワー、力のある状態にしていきましょうということです。従来、いろんな福祉施策、支援活動というのは、その人たちに力がないから、力を貸してあげなくちゃ、という考え方が主でした。エンパワメントという概念は力がないわけではなく、発揮できない状態にさせられている、期待もされないしポジションや教育も保障されない、できないと思い込まされているから力が発揮できない。女・子どもであっても、障がいがあっても、高齢者であっても、すべての人たちが力のないわけではなくただ単に力を発揮させてもらえていないだけだから、その人たちが力を発揮できるような状態にしていこうという考え方がエンパワメントという概念です。
日本にはこれまでなかった概念なので、カタカナでそのまま使われています。逆に、海外に輸出されていった「もったいない」という言葉はご存知ですよね。「もったいない」というのは日本の中では普通にある考え方ですが、海外にはなかったので、そのまま「MOTTINAI」という言葉で使われているように、エンパワーメントという言葉が日本語に置き換えられるいい言葉がないので、日本でもそのまま使われています。SEANという名称は、セルフという言葉をつけ、自ら自分の力を信じて一歩踏み出しましょうと呼びかけています。アクション、行動を起こしていきましょう、ネットワーク、人と人とがつながりあっていこうということです。
1997年、何をやり始めたか。女性学級として学習会を、94年から年間10回ほど企画運営していました。97年ころ、参加者に子どもづれの方たちが増えてきました。皆さん、想像していただけますか。こういった学習会で3、4歳くらいの子どもが4、5人同席するとどうなるか。大騒ぎですよね。後ろで椅子を縦に並べて電車ごっこを始めたり、キャーキャーワーワーという状態が生まれたのが97年なんです。その頃、まだ有償の保育スタッフの団体がなかったので無償のボランティアさんたちにお願いするような保育が主流でした。ボランティアセンターに人材はいないかと相談したのですが、「ずっと無償の人たちを頼りにしていたらだめですよ。自分たちで何とか考えたらどうか」とアドバイスされ、それで立ち上げたのがSEANです。その時に大事にしたのは、私も含めて多くの女性たちは一旦、専業主婦になってしまうと自分が育児、家事とか家のことで培ってきた経験はキャリアにはなりません。働きに行きたいなと思って履歴書に主婦歴何年と書いても相手にされない。だけどそこでやってきたことは、経験値でもあり、いろんなパワーでもあります。けれども有償性がなく、経験値も社会的には評価されない。じゃぁ、保育をする時は有償のスタッフでやりましょうと立ち上げました。今でもSEANの部門として取り組んでいます。幼稚園、保育所の送り迎え、学習会での集団保育、事務所の2階が保育室になっていて、そこで子どもたちの一時預かりなどをしています。ですから、小さなお子さんから多年齢のいろんな子どもたちと私たちは出会ってきています。
その活動の中で、ジェンダーの問題に出会っていきます。ジェンダーの問題は前回、そこを中心にお話しましたが、ちょっとだけ簡単にお話をさせていただきます。もう一度、前回やったクイズをやりますね。お父さんと息子が道を歩いています。横断歩道を渡っていると、そこにトラックが突っ込んできて二人は交通事故に会います。お父さんは即死をします。息子は大怪我をしたので救急車を呼んで救急車に乗せて大病院に運んでいきます。その手術室に息子を運んでいくと、大病院の有能な外科医がやってきます。有能な外科医は大怪我をした息子を見て、こう言いました。「息子、これは私の息子だ」「さてこの有能な外科医と息子の関係はどういう関係でしょうか」というクイズです。おわかりになった方、手を挙げていただけますか、そのうち今聞いて、初めてわかった方だけ手を挙げてください。一人いらっしゃいますね。おわかりにならない方、正直に手を挙げていただけますか。ありがとうございます。
登場人物は3名でした。お父さんと息子と外科医です。お父さんは亡くなりました。あとから外科医が出てきて、大怪我をした息子を見て「これは息子だ」と言ったわけです。お父さん以外に息子だと言える人は他に誰がいるでしょう。わかりましたか。ご自身のことを思い出してもらえますか。自分の親、お父さんが亡くなりました。誰が残っていますか。お母さんですね。ということは外科医はお母さんですね。最近、ある講座で同席していた8歳の男の子と女の子がいたんですが、この子どもたちも答えはわからなかった。なぜわからないかと言うと、外科医と聞くと男のイメージに私たちはとらわれているからです。そういう性別によって男はこう、女はこうという考え方のことをジェンダーと言います。SEANが取り組んでいるのはこのジェンダーの問題です。SEANでは、園児から中高生・大学生まで、人権教育プログラムの出前授業を請け負っています。今のようなクイズを取り入れながら、子どもたちに「とらわれから解放され、あるがままの自分を大切にしていこう」と投げかけます。ジェンダーに関する調査研究、報告書なども発行しています。今日は見本で並べていますので、休憩時間にごらんになってください。では本題に入っていきます。
私自身も25歳と21歳の娘が二人おります。上の娘は4月に結婚しました。そういう娘たちを育てながら、子どもが小さい頃は自宅で造形教室もやっていました。いろんな子どもたちが家に来て、工作活動をやったり、遊びをしてみたり、地域の図書コーナーでお話し会を開催したり、PTA、子ども会、親子劇場、さまざまな形で子どもたちとかかわる活動に取り組んできました。CAPという、子どもへの暴力防止の活動にも97年から5年間ほど関わっています。保育事業での小さな子どもたちとの出会い、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学などでの多年齢の子どもたちとの出会いを通して感じてきたこと、考えてきたことを今日は皆さんと共有していきたいと思います。
子どもたちにとって基本的にとても大事なのはエンパワメントというかかわりです。さまざまな可能性、能力、知性、感性、存在意義、個性、いろんな力を持って子どもたちはそこに存在します。でもどうも大人である私たちは、子どもが小さければ小さいほど「できるはずがない、どうせ、やれないんだから」と言って過剰に手を出しすぎてしまう。その子たちが自分で何をしたいかということを聞く前に、私たちは手を出しすぎているということがあります。子どもたちをエンパワメントしていくために何がいるか。本来なら、皆さんに自分で考えていただくために時間を取りたいところですが、どうでしょうね。自分自身のいろんな可能性、「やれるな、大丈夫、やれるんじゃないか、大丈夫、自分は挑戦してみる価値があるんじゃないか。自分の能力が発揮できるな」と思える時って、どういう時でしょう。周りからどんな形でかかわってもらえた時に「大丈夫、できるな」と思いますか?言葉であったり、態度であったり。いろいろありますよね。』
参加者
「『君はできる』と勇気づけてもらえたとき」
「頼られたときとか」
「共感してもらえたとき」
『いろいろあると思います。そういうかかわりがあった時、「大丈夫、やれるよ」と思えたら前に一歩進めることができる。学校で授業をやっていますので、一方的にお話をしても、こっちから入って、こっちへ消えていくような授業をしても意味がないと実感しています。ぜひご自身で考えていただきたいんです。自分に問いかけてみて、自分でどうなのかと考えていただいて初めて自分の中で消化していくので時々、皆さんに問いかけたりしますが、答えたくない時は「答えたくない」と言っていただいて結構です。
私がここに書いているのがすべてではないです。まず基本的に「安心できる関係」、顔色をうかがわないといけないような人の前では力なんて発揮できません。いつもその人の顔色をうかがって、この人が喜ぶかということばかり気にしていたら、本当に自分の思っている方向では行動できない。そして「信頼関係」、信じる力。無条件の愛。条件のない愛。「これができたら褒めてあげるよ」ということではなく、条件なしの愛。適度な期待。期待というのはとても重要なんですが、そこに「過度な」とつくと、その子の力量以上のことを期待してしまい、できないという結果が生まれてきます。それはやる気をなくしていくことにつながる。教育や、正しい情報の提供が基本的に大事です。
「力関係」ってどんなイメージですか? この言葉、「力関係」と聞いた時に、いいイメージをお持ちですか、悪いイメージをお持ちですか? いいイメージが浮かぶ方、手を挙げてもらえますか。悪いイメージがあるという人。大半の方が「力関係」と聞いたら悪いイメージを持ちます。それはなぜでしょうか。大人と子どもの関係にも「力関係」があります。他には誰と誰の関係をイメージされますか?』
参加者 :「教師と生徒」「国対国」「上司と部下」「教師と生徒」
『それらの関係には「力関係」があります。それは別にいいとか、悪いとかの判断はありません。大人と子ども、教師と生徒、医者と患者、多数者と少数者、健常者と障がい者、官と民、上司と部下、男と女。もっとたくさんあると思いますが、基本的に構造的に「力関係」が発生しているというだけで、それがいいとか、悪いとかという判断は実はないんですね。大人と子どもの関係の中の「力関係」で、大人が子どもより持っている力は何でしょう。「経験」「財力」「知識」「腕力」。それって、いいとか悪いとかあります? 体力とか腕力とか財力、知識、経験値、いろいろあるんですが、実はそれそのものは、いいも悪いもないんですね。体力、経験、知識、経済力、教師と生徒も同じような感じですね。知識、経験、専門性、医者と患者もそうです。多数者、少数者は数だけのことです。健常者、障がい者も身体等の機能の問題ですね。官と民は決定権とか総括するのは官ですね。上司と部下、決定権、総括、指導。
ただ、男と女は実はジェンダーによって変動しています。前回もお話しましたが、昔、女性たちは体力がないということでオリンピックには出させてもらえなかった時代があります。参政権をもらえなかった時代があった。その頃は参政権を持っている男性たちの方が決定権を持っていたし、オリンピックに出られる男性たちが体力も勝っていましたが、今からオリンピックが始まりますが、オリンピックに出場する女性選手はすごいですよね。一般の男性より筋力が発達しています。ということは一般の男性より、オリンピックに出ている女性たちの方が運動能力があるとしたら、その力の差というのは教育とポジションによって生まれているということです。
大人と子どもの関係性においては子どもたちが小さければ小さいほど、「力関係」の差は大きくなります。大人が持つ力をどのように使うべきなのか。体力、知識、経験、経済力、その力は何に使うべきだと思いますか?たとえば経済力、お金を大人は持っているわけですね。子どもにお金を使う時ってどういう時ですか? この力を使ってできることは、子どもたちに食べる権利を保障することです。悪い使い方としては、どんな使い方がありますか? 使わないということも、逆の力の行使としてありますね。ネグレクトということは、生活を保障しない、病気になっても治療しない。大人が本来持っていて使うべき力を使わないということです。以前に他の講座でお聞きした時、給食費を払うことという意見が出てきました。子どもたちの衣食住などにお金を使うというのはいい使い方、逆に何でも買って与えるのはよくない使い方ではないかという意見が出てきました。
大人と子どもの関係には力関係があって、その力にもいろんな力があり、重要なことはその力を適切に使うということです。力関係そのものに、いいも悪いもなくて、適切に使うべきことなんだけど、この力を間違って使うことが子どもの人権侵害になるということです。強者と弱者の関係では大人の方が子どもより強い位置にいます。人間の赤ちゃんは生まれてほっておくと死にます。自分で立ち上がって歩いたりということはできません。大人が世話をしないと死んでしまいます。そういう関係であるから、私たちは子どもにいろんな責任をもっているわけです。大人と子どもの間には構造的な「力関係」があり、年齢が小さいとその力関係の差は大きい。だんだん身体が大きくなって16、17、18歳になると体力的な差というのは均等になってくる。経済力も子どもたちは成長していくと逆転していくケースもあります。知識、経験値もどこかで横並びになるか、逆転していくことになっていくわけです。それが育ちということです。
その力を使って私たちがやるべきことは指導だったり、教育であったり、支援であったり、サポートであったり、子どもを理解すること、子どもの声を傾聴することです。力を持っているということを自覚しないと間違った使い方をしてしまいます。強者の特権でやってはいけないこと、強い立場にいるからといって、無自覚でいると、やってしまいがちなことが、こういうことです。支配していくこと、本来、子どもが決めるべき自己決定権を奪うような管理をしてしまうこと、所有、自分のもののように扱うこと、強制、言うことを聞いておけと強制すること、虐待、暴力、無視、無理解で力を使ってしまうことがある。「力関係」と聞いて多くの人が悪いイメージになるのは、こちらのイメージを持ってしまうからでしょう。悪い方に特権を使ってしまう。新聞報道にもよく出てくるので、そのイメージが強くなってしまうということでしょう。
適切な力を行使しないと、子どもたちにとってはマイナスになる。たとえば学級崩壊などは、力関係が逆転してしまうケースです。これはよくない。子どもの言いなりになってしまうこと。これもよくないケースです。力はあるわけで、その構造的な力は責任において使うべきですが、使わず責任を放棄することや、関係が逆転するなどといった問題が起こっています。
大人の役割と子どもの人権。強者としての自覚が、私たち大人に欠落してしまうと何が起こるか。というのは虐待を指す言葉です。というのはabnormalので、何々から離れる、useは使う。本来の使い方とは違う使い方をするというのが虐待という言葉の本来の意味です。力を乱用すること、誤用すること。本当は大人が持っている経験とか知識、能力、経済力で子どもたちを育んでいかないといけないのに、そうではなく子どもたちを支配したり、所有したり、過度に管理をしたり、自分のもののように扱っていくことを虐待と言います。自分に服従、従属させ、子どもの心と身体を傷つけることは人権侵害です。身体的、精神的な健やかな成長を阻むことになっていきます。今日の話は、皆さん大人である立場と、ご自身が育った成育歴のことも含めて思い出していただけたらと思います。
大人が力を使わず、責任を放棄すれば育ちに必要な権利が保障されない。この力は使うべき力です。それを大人の責任において放棄してはいけない。大人が放棄すれば、子どもの自立した大人への成長が阻害される。私たちは先に生きている責任において子どもたちを自立した大人に成長させていく責任を負っています。力を濫用してもいけないし、かといって使わないこともまた一つ問題であるということです。力が逆転すれば、しつけや教育ができないことが起こります。
児童虐待の防止等に関する法律は、日本では2000年に施行されました。2004年、2007年に改正されています。このデータは児童相談所における虐待相談対応件数の推移です。法律ができてから相談件数は増えています。検挙された件数ではありません。法律ができると、それが後押しとなっていろんな取り組みがなされることで相談件数も増えます。相談されることは防止にもつながっています。内訳を見ると「身体的虐待」が15,364件、「ネグレクト」が14,365件、「心理的虐待」が6,414件、「性的虐待」が1,180件です。ただし、これは相談件数ですし、大人と子どもは力関係がありますから、子どもが小さければ小さいほど表面化しません。子どもたちから訴えることはなかなかないので、氷山の一角のような数字だろうと思います。基本的に子どもたちに一番保障しないといけないのは衣食住の権利です。
フェスタでのオープンのワークショップだったんですが、ある時「子どもの育ちで必要なことは何でしょう」と議論していました。小学1年くらいの男の子がやってきたので「子どもの育ちに必要なことは、なあに?」と聞いたら何と答えたと思いますか?「食べることと空気、水」と言ったんです。子どもたちは切実に食べさせてもらうことを一番要求しているんですね。それを保障しないことが最も命にかかわることです。大人たちが出した意見は「愛」なんですけどね。愛だけでは生きてはいけない、子どもは切実に食べることを要求しています。
最近、出前授業としてデートDVの予防教育の依頼が多くなってきました。また、子育て講座の依頼も多く、親御さんにいろいろ話を聞いたり、講座をしたりすることと、恋人間の暴力の問題と向き合うことが多く、親子間と恋人間で起こっている暴力の問題がとても似ているなと最近、感じるようになりました。大人と子どもは力関係があります。その構造的な力関係の中で「あなたのためよ、あなたの将来のことを大事にしているから、だから言うことを聞いておきなさい」ということで子どもの自己決定権を侵害し、所有し、支配し、管理することを「あなたのためにしていること。これが愛なんだよ」と教えこまれることと、恋人間で「お前のことを好きだから、俺のことを愛しているなら言うことを聞け」という愛という名の暴力が生じる。愛と支配、所有は違うはずなのに、誤認されやすい。
無視されるよりも、境界線を超えて管理され、支配され、束縛されることの方が愛だと誤認しやすい。もっとも傷つくことはネグレクトですね。ほっとおかれること、無視されること、関心を示してくれないことが一番傷つくことです。境界線を超え、自己決定権も侵害され、「愛しているから、お前のことが心配だから言うことを聞いてほしいんだ、これは愛なんだよ」と言われることの方が、まだマシと、それを愛の証としてよりどころにしてしまう。しかし、相手に自己決定権を委ねざるを得ない状況が続くと、いつのまにか、その相手の顔色をいつもうかがいながら生きていくことになっていきます。
子育て講座の中で、「子どもを育てる中で自分の成育歴と向き合わざるをえない。これまで常に母が好きな服を着て、母の好きな髪形をし、母の望むことだけを一生懸命やって生きてきました。その恨みつらみを子どもを通して思い出してしまう。今はあえて、母が嫌いな恰好をするようにしています」とお話される方とも出会います。常に何かを決定する時、その人の顔が強迫観念として浮かんでしまうような親子関係における支配関係は、わりとたくさんあるのではないでしょうか。
子どもの育ちの中で保障すべき5つの権利ということで、こんなふうにまとめてみました。私はCAPのスペシャリストでもあります。CAPでは、子どもが持つ3つの特別な権利として「安心」「自信」「自由」があると話します。安心・自信・自由、それを奪われている時が暴力にあっている時である。その安心・自信・自由を取り戻すために「いや」と言っていいし、逃げていいし、誰かに相談しようねということを子どもたちに体験させていくのが、CAP(Child Assault Prevention)のプログラムです。私は5年間、CAPをやっていて、そこから多くのことを学びました。
そこから発展させて私は5つの権利としてまとめました。一つ目は「存在意義が認められる権利」。あなたはかけがえのない存在なんだよ、あなたはそこにいるだけで意味があるんだと存在意義を認められること。その次に「知る権利」、正しい情報を提供してもらえること。そして「自分の頭で考えること」。それから「自分で選ぶこと」。そして「選んだ結果を自分で引き受けていくこと」。この5つの繰り返しの中で、子どもたちは成長していきます。どれもが必要なことです。今は情報過多の時代ですから、「知る権利」はとても大きな課題になっています。ケータイやインターネットの普及で、30年前から言えば600倍の情報量に増えているという人もいます。偏った、歪んだ情報が溢れています。そういった情報は簡単に手に入ってしまうにもかかわらず、その情報を選び取る教育を子どもたちにきちっと提供しきれていない。それで今、危険な状態です。結果を引き受けることはとても大事です。親が決めたことに従っているだけであれば、仮にうまくいってもそれは自分の評価として認識できない。そして自分で選んだことであっても、選ばされたことについては、うまくいかなかったことや、あるいはいろんな事件を起こしてしまっても、それは自分がやったこととして認めにくい。最近の秋葉原でおこったあの事件など、自分で人をあやめてしまった事件でも、「親が悪い、世間が悪い、こうこうこうだから」と言って自分がやったこととして認識できていないという報道が目につきます。育ちの中で自分で考えて、自分で選んで、結果を引き受けること、ほんの些細なことでいいんですが、そういうことの繰り返しを学んでこなかった。親からこうしろ、ああしろと言われて、言う通りに聞いていくことの繰り返しの中で、責任を負えない大人になってしまったというように私は思います。
子どもは力関係で弱者の位置にいるから、親の言うことを聞かざるをえない。しかも「愛しているから言うことを聞いておけ」と言われ、「愛」の名のもとで言うことを聞くことを強いられる繰り返しの中で、結局、責任を負えない大人になってしまう。小さな頃から、今日、学校に行く、行かない、これを食べる、食べない、そんなことでも自分で決めていくこと、決めたことは「あなたが決めたんだからあとは自分でちゃんと引き受けていくんだよ」と教えていくことが、とても大事なんだと思います。
別のところでワークショップをした時、参加者の皆さんに「存在意義」を保障することと、男・女といった性別役割期待を重ねて考えた時、どんな問題があるかを考えてもらいました。生まれる前から男の子、女の子として、「跡継ぎがいるから男がいいよね」という話があるわけですね。その子が誕生することそのこと自体を喜んでいる社会ではなく、生まれる前から性別によって期待されたり、評価されたり、評価されなかったり、ということが起こっています。生まれた後もそうです。男の子を期待していた、でも女の子だった。「お前が男だったらよかったのに」みたいなことを繰り返し言われる。逆のパターンもあります。「可愛い女の子がほしかったんだけど、生まれたら男の子だった、がっかりしたわ」とずっと言われ続けるという性役割期待があります。
そして「知る権利」では、非常に歪んだ情報が氾濫しています。小さな頃から男の子向け、女の子向けと分けられ、恋愛観もカップル単位で、彼氏像・彼女像の植え付けが情報の中に氾濫しています。夫婦間においても妻役割・夫役割という位置づけが情報の中に多い。テレビ番組などは特に偏った情報が多くなっています。
一昨年11月、大阪の尼崎で起こった事件です。小学校4年生の男の子が、同級生の男の子を数人自宅に呼んで、一人の同級生の女の子を呼んで性暴力を起こすという事件が起こりました。私はものすごくショックを受けたんですが、どうですか、皆さん、小学校4年生の子が、友だちのところに遊びに行くと言ったら行かせますよね。まさかそんな目に会うなんて誰も想像しなかった。呼びつけられた男の子の友だちも、まさかそういうことになるとは思っていなかったかもしれません。主犯格の男の子がどう言ったかというと「アダルトビデオのようなことをやってみたかった」。ちまたでは、そういう情報が溢れています。友だちの家に行ったらそういうものが置いてある。「見てみようよ」ということが軽はずみに行われる。そういう情報を入手してしまうと、そういうものだと思いこんでしまって、短絡的にやってしまいたくなる、そういうことが起こっているのが現代社会です。正しい情報を子どもたちに伝えていくのが私たち大人の責任だということです。
そして「考える権利」、これは子どもが自分で考えるということです。それに反して、大人に対しての従順さが奨励されます。私も思い出すと、去年亡くなった父は大正生まれでしたが、「お父ちゃんの言うこと、聞いておいたら間違いはないんだ」とよく言われたことを思い出します。「大人の言うことさえ聞いておけば間違いがない」を実行していくと、自分では考えなくてもいいということになります。
「選ぶ権利」についても、今、ここでジュースを飲むか、水を飲むか、単純なことから、どこの大学に進学するか、どこに住むか、そういうことを含めて全部、大人が先にレールを敷いてしまいがちです。女の子なら「早く結婚するんだよ、結婚して子どもを産むべきだ」と再三言われる。男なら「いい学校へ行き、いい就職をして、立派に一人前になって妻子を養い、この家の後を継ぐんだよ」というレールを敷いてしまう。本人が望む、望まないにかかわらず。人が決めたことの責任は引き受けきれません。親がこうやったから、社会がこうだから、こんな容姿だからと言って、全部他の人に責任を向けてしまうことにつながっていきます。さまざまな大人からのかかわりで、子どもたちはその評価によって、自分の価値観、アイデンティティを築きあげてしまうわけです。また自分の子どもにも、自分が育てられたように育ててしまうという連鎖も起こっています。
第一に認められるべきは「存在意義」です。私たちは誰もが一人ひとりかけがえのない存在です。同じ人は一人としていません。「みんな違って、みんな、いい」という言葉が一時、流行りましたが、人間は約40億年前、海の中で一つの細胞として誕生した生命体の命を引き継いでここに存在しています。誰もが、かけがえのない存在です。生きているだけで、ただそれだけで意味がある。いい悪い、好き嫌いの評価は抜きで、存在そのものが肯定される体験というのが子ども時代に、とても重要です。私も思い出しますが、「こんなことをしたら心配するだろうな」とか、常に私の存在を受け入れてくれている大人がいるというだけで、とても心が安定する、気にかけてくれている人がいるんだということが、自分の生き方を導いてくれるということはあると思います。
一人ずつ、かけがえのない存在であり、かけがえのない”こころ”と”からだ”を持っています。自分の”こころ”と”からだ”がどう感じているかをきちっと把握できるということは、他の人の”こころ”と”からだ”がどんな状態であるかということに思いを馳せることにもつながっています。自分を大事にできる人は他者も大事にできます。自分にこうあるべきだという評価、抑圧を持っている人は、他者に対してもこうあるべきだというような評価や抑圧を向けてしまいがちになります。まず自分が、かけがえのない存在であり、自分が感じていることを考えていること、自分の”からだ”の状態を認識できるような育ちが、とても大事だということです。
これは前回もお話しましたが、存在意義を限定するのがジェンダーです。ジェンダーというのは男はこう、女はこうという考え方ですね。実は生物学的な分け方をセックスと言うんですが、セックス自体も単純に二分化できません。典型的な男、典型的な女だけではなく、そこに所属しない人たち、インターセックスという存在の人たちが2,000人に一人いると言われています。私たちはお母さんの胎内にいる時はもともと女性型の細胞です。そこにホルモンの作用があって男性化していく人、女性化していく人に分かれていきますが、分化の途中で止まる人とか、両方の特徴に分化していく人たちがいます。身体は男だけど、染色体を調べたら女であるとか、ペニスとヴァギナと両方持っている人とか、そんな人たちが実は2,000人に一人いる。男と女に単純に二分化できないのに、一人前の男はこう、一人前の女はこうと決めてしまうことは、そういう少数派の人たちの存在を否定することにつながっています。
ジェンダーという「女の子だから」「男のくせに」という性役割期待というのは、世の中には根深くあります。その中で女の子は弱い存在として依存を奨励され、「泣いてもいい、頑張らなくてもいい」というふうに可愛がられます。男の子たちは強い存在として自立を強要され、「泣かないこと、負けないこと、跡取りになること、大黒柱になること」を期待されます。「女に期待されること」「男に期待されること」を出してという授業をした時、中学1年生たちが出したのが、女の子に言われる言葉は「危ないから皆で行きなさい」。男の子に言われる言葉は「どこかに行く時は一人で行きなさい」という言葉でした。2つの言葉の違いがわかりますか。女の子は「危ないから助けあって、危ない状況を乗り越えましょう」と言われるんですが、男の子たちは「強くあるべきだから、一人で戦いなさい」と言われているということです。そんなふうに、もともとの性別によって特性が違うと認識されることで、期待されることも違ってきます。
その違いからいろんな問題が生まれています。いじめの問題、いじめによる事件の検挙補導人員、2007年のデータです。小学生は「女子」19%、「男子」81%、中学生は「女子」26%、「男子」74%、高校生が「女子」18%、「男子」82%。いじめで検挙され、補導されている子どもたちは、おしなべて男の子の方が多い。何となく「いじめ」と聞くと、女の子の方が陰湿ないじめがたくさんあるようなイメージがありますが、数を見れば男の子の方が多いです。
いじめの原因と動機で一番多いのが「力が弱い、無抵抗」43.3%。特に男の子で力が弱くって無抵抗な子はターゲットにされます。それは「男らしくない」からです。「男らしくあるべきだ」と教え込まれている子どもたちは、そういう子どもを見たら許せない。ホームレスを襲撃しているのもそれと同じです。男のくせにドロップアウトしていくことは許せない、そういう価値観を持ってしまうということです。次に多いのが「いい子ぶる。生意気」12.9%。これが多分、女の子がターゲットになるいじめだと思います。「はっきりものを言う、自己主張が激しい。協調性がない」ということで女の子たちはこういう理由でいじめられる。「よくウソをつく」9.2%。「態度、動作がにぶい」5.9%。「肉体的欠陥がある」というのが5%という結果です。
これも前回の「女性の権利」の講座でも示したデータの一つですが、少年院に収容されている人員の推移。昭和24年から平成16年にかけて、少年院に収容された子どもたちの性別差。女の子たちはほぼ横ばいです。男の子たちは時代背景によって変動しています。なぜだと思いますか?男の子たちは、一人前の男になって、家族を守り、妻子を養い、国のために命を投げ出すということを役割期待される。すると、資本主義社会の中で状況が不安定になると加害行為に追い込まれる、そういう子どもたちが増えるということだと思います。戦後の混乱期、あるいはバブルが崩壊した後、今、格差社会が広がっていく中で、また危険な状態だと思います。ただし、これは加害行為をしてしまうケースですが、もう一つ、自分を傷つける行為に発展することもあります。自殺者が増えていく。自傷行為とか、非行とか、自分を痛めつける行為に走っていく子どもたちも増えていくんだということです。
なぜ男子の新入院者数が社会状況の中で変動するのか、もう一度考えていただきたいと思います。「男は強く、女は優しく」と育てられる。たとえばB君という男の子がA君という先輩に暴力を受けます。その時、B君は”こころ”と”からだ”が傷つけられる。悲しい、ムカつく、むしゃくしゃする。情けない。いろんな気持ちが生まれます。そんな時に「男は負けてたらあかん、泣いてたらあかん、やり返さな、一人前と言われへん。泣き寝入りなんかしたら男らしくない」と彼が考えたら、先輩のA君をやり返しに行きます。そこで暴力が再生産されます。先輩A君は強くて、やり返せない。だけどやられっぱなしになっていると情けない。「自分はなんてダメな奴なんだ」と思うと外へ出られなくなったり、ひきこもってしまったり、グレるという言葉は古いかもしれませんが、自傷行為に走ってしまう。そしてもう一カ所、向くところは弱いものいじめです。大きな殺人事件が起こる前というのは、その周辺で動物虐待が起こっています。先程のいじめの原因で、はっきりものを言わないとか、弱い子どもがターゲットになるんだということで強くなろうとした時に、相手が強すぎてやり返せなかったら、勝てそうな相手を選んでいくことが起こります。「負けてはいけない」と勝ち負けにこだわれば、暴力は連鎖していくんだということです。
存在意義というのは、命があるというだけで、それぞれ皆、かけがえのない存在だということです。そのことを体感させていくことが、基本的に子どもたちの育ちの中で大事なのにもかかわらず、性別によって、これができれば一人前という抑圧を受けている例が非常に多くあります。親に性役割を期待されることで、子どもの存在意義そのものが否定されてしまう。命があるということそのものに意味を持たせるのではなく、その子の背景にある役割を期待してしまうことが、その子の人格否定につながっていくということが起こっているように感じます。』
『依存と自立の関係について、ということでお話させていただいているのですが、今までのお話とその依存と自立という話がどのように関係しているのかというお話をします。SEANが主催する保育スタッフの養成講座で、いろんな方に講師に来て頂いてお話を聞いて勉強する機会があります。その養成講座で発達心理学の先生がこんな話をされました。「人間は一人では生きていけない。一人では生きていけないから、もともとは依存していくような関係性の中で人間は成長していく。ですから、依存というものは必要なことです。で、成長していくなかで、例えば親との依存関係。密着した依存関係からその関係性を分化していくことが自立なんじゃないかと自分は思っている。」と話されたんです。私は目からウロコでした。ジェンダーという問題に取り組んでいく中で、課題だと感じているのはこの辺の問題だと思うんですね。女の子は依存を奨励されます。「いいよ、いいよ」「大丈夫、大丈夫」「よしよし」って依存は奨励されますが、自立はあまり期待されません。「経済力を持って一人でバリバリ生きていきなさい」っていうようなことはあまり期待されません。男の子は逆に、「一人で頑張れ」とか「困っても人を頼るな」と。自立は奨励され強要されるが、依存は否定されます。甘えるってことをさせてもらえていない子が非常に多いんですね。特に泣くということも許してもらえない。泣くっていうのは、”こころ”や”からだ”を傷つけられた時に「悲しいなぁ、辛いなぁ」ということを感じて、それを表現する手段です。赤ちゃんは泣くから「なにか困っているんやなぁ、おしめかな、おなかすいたんかなぁ、どこか痛いんかな、寒いんかな」といってあやされるわけですよね。泣くからSOSとして大人に伝わるわけです。だけど、どうも男の子は小さな頃からそれを十分にさせてもらえない。少年院に収容されていく子どもたちに対応している教官の方が、おっしゃっている言葉です。少年院に収容されている子たちの特徴として挙げられているのが「自分の感情を上手くコントロールできない。」それから、「人の痛みを理解しないし、想像力に欠ける。」「強いものに追随する傾向がみられる。」この3点なんですね。悲しい、辛いというような感情、泣くという感情が小さな頃から男の子たちは否定されて、自立を促されていきます。自分の感情を理解出来なければ人の感情に対しても、想像力に欠けていきます。そして、勝ち負けの世界観の中で弱い立場の子どもたちは、強いものに追随していくしか生きていく方法がないわけです。で、そんな子たちが加害者になって少年院に収容されてしまうわけです。女の子たちのほうは「かわいいね、よしよし」って言ってかわいがられますが、あまり将来性みたいなものは逆に期待されない。
子どもは特に一人では生きていけません。基本は大人との依存関係をまず充分に体験していくことからはじまります。そして、その依存関係を一人の大人から二人、三人、四人、仲間うちと広げていくわけですね。頼りあう関係を広げていくことで自立をしていく。依存っていうのは、辞書で調べると「他のものを頼りにして、存在すること」とあります。他のものを頼りにしていくことから出発する。自立っていうのは辞書でひくと、「他の援助や支援を受けずに自分の力で身をたてていくこと」とあります。まず、人と関係するなかで頼り、そしてそれが分化して自分で物事を考え、自分で選んで、自分で結果を引き受けていくような大人に成長していくこと。ですから、実は依存というのは育ちのなかではとても重要な意味を持ちます。でもたぶん、先ほど冒頭で「力関係」と聞くと、悪いイメージですか・いいイメージですかってお聞きしました。それと同じように「依存」「自立」は悪いイメージですか・いいイメージですかってお聞きしたらたぶん、「依存」はあまりいいイメージがなく、「自立」はいいイメージがあると思います。育ちの中ではどちらもとても重要です。段階的において、両方経験していくことが必要なのだと思います。
子どものエンパワーメント、一人ずつの子どもは、かけがえのない命をもって、そこに存在しています。存在意義は命そのものにあります。性役割ではないです。勉強ができるから、男の子として一人前になるからえらいとか、女の子として人にお世話をできるからえらいとかっていうことではなくて、命そのもの、存在そのものに意味があります。そして私達大人は、子どもたちに安心できる関係、信頼できる関係、無条件の愛、適度な期待、教育、正しい情報を提供していくこと。子どもたちの自律を促し、大人として強者の位置にいることを自覚し、適切な力を行使し責任を果たしていくことがとても重要なんだと思います。
(質問)
依存と自立という関係について、人間の成長、特に小さい子どもは小さくてもしっかりとね、母親、父親にまあ親に抱きしめられたりね、愛情十分に依存しているということが自立に結びつくそういう風に思います。今言いましたのは、依存ということになるのかちょっとわかりませんが、重要というのか親に安心して依存できるという、そういった育ちのプロセスというのはその親の自立に、確かな自立に結びついていく。そういう考え方はどうでしょうか。
遠矢
ありがとうございます。いまおっしゃっていただいた通りのことをお話したつもりです。今、言葉をとても選んで頂いて、お母さん、お父さんと言っていただいてよかったと思います。「母性」っていう言葉ってね、どうしても母親特有のイメージがありますが、ホルモンによって生まれる「小さなものを慈しむ感覚」なんですが、それは雌特有の話ではなく、小さな命を慈しむ感覚っていうのは男女共に生まれます。それは、子どもを産んでいる・産んでいないも関係ないので、お母さんでなければいけない、お父さん、血縁の人でなければいけないっていう話でもないです。
余談ですけど、私自身が親ですから、子育てでうまくいかなかったとか、うまくいったとかいろんな体験をしてきました。子育て講座のなかで、多くのお母さんたちが子育て失敗してしまいましたとおっしゃいます。何をもって失敗というのかといつも悩むところですが、もっと子どもの力を信じたらいいと思います。もともとの資質が一人ひとりずいぶん違うということが、2人の娘を育てたことで分かりました。例えば育児書を読むと、「こうしたらこうなります。(ので)こうしましょう」としか書いてないですよね。でも本当は、子どもはケースバイケースです。同じ言葉をかけても、受け取る子どもによって解釈が違うんですね。同じ言葉がけや出来事を、それぞれ異なった解釈をしていることが分かりました。もし一人しか育てていなかったら、「きっと私のこの言葉がこの子をこんな風にしてしまった」って自分を責めるっことも多かったと思うんですが、ずいぶん反応が違う、解釈が違う。その解釈によって生きていく、選んでいく方向性も微妙に違うんだという体験してきました。一番大事なのはその子の在り様をそのまんま受け入れ、その子が何を愛だと体感するのかを見抜く力だと思います。上の子と下の子では、愛されているという感覚のプロセスが若干違っていました。2人いるとよくわかります。特におもしろいのは下の子は、「物質欲」ですね。物で満たされることで、愛情を体感する。お姉ちゃんよりも1個多いとかね。そういうものをすごく要求する子でした。上の子はそういうのはなく、信頼され自由にさせてもらうことが彼女にとっての愛情体験だったように感じます。そういう風に、よく見ていくことでどんどん、その子にとって何が適切かというのがわかってくる。うまくいかなかったなぁっていうことの繰り返しの中でも、子どもは多分成長していくのだろうなとも思います。失敗したということもまた、その子の成長に何かの意味が生じるということだと思います。子どもはいつか、自立して自分の足で歩いていくものです。今は何となく、なにやってもうまくいかないと思っても、いつしかその子にとったらそれが大きな意味を持つことになり、その子が何をそこから選びとっていくかはその子の力によるのでその子が選ぶことを阻害しない限り、選びとったことを、自分で引き受けていきちゃんと前に進んでいくんだと思います。また、あまり完璧な大人を子どもはむしろ喜ばない。学校で授業やる時もそうです。理路整然と完璧な先生はあまり好かれません。なんかちょっと世話焼いたらなしゃーないなというような先生が子どもはすごく好きですし、信頼するようになりますね。人間は完璧には生きていけないので、その完璧でないなかで、どれだけ一生懸命生きようとしているか、その姿からきっと子どもたちは何かを学び、成長していくのだろうと思います。
(質問)
世の中一般の、大概は出来る・出来ないそこら辺が目に見えてこないと納得しない人が多いわけですね。そのような場合にどのようなところにポイントを置きながら、そういう方々、親の対応をするのか。ポイントというかコツというか姿勢というかその辺をちょっとお伺いしたいと思います。
(遠矢)
ありがとうございます。とても難しい質問だと思うんですけど、私は常に親御さんの前にたつ時には、みなさんはかつて子どもだったんだというところから話をします。かつて子どもだったあなた、あなた自身のことです。全ての大人たちはかつて子どもだったわけです。その自分が親から受け止めてもらえなかったことを経験されている方たちがまた、繰り返しされているケースが非常に多いので、まずあなたが傷ついたこころ、傷ついたからだをあなた自身が抱きしめてあげること、あなた自身が受け入れてあげること。それが目の前にいる子どものあるがままを受け止めることにつながっているんだということです。その人自身を否定したところで、その人がそういう経験しかされていないとしたら、さらに否定される話になっていきます。だから逆にもっと頑なになってしまわれるので、もう一度あなたの心を癒す方法をね、1からですね存在理由を知るということをその人に体験してもらうというようなことが少し必要かなと思います。それと子ども、そういう親に育てられている子には、親を変えることはできない。力関係の中であなたが親を変えることは基本的には無理だから、あなたの人生はあなたのものであって、他者の目を気にしていれば、他者の評価で自分の人生を歩んでいくのは辛くなるだけだから、だったら自分の力で信じて、あなたの人生はあなたの手で選びとっていこうねっていう働きかけをしています。
ありがとうございます。