部落解放6月号 特集 子育てとジェンダー
(04.06.10)
535号 解放出版社発行
絵本とジェンダー
絵本との出合い現在21歳と16歳になる娘たちがまだ幼かった頃、子育てを通して私はたくさんの絵本やおはなしと出合いました。下の娘の通った私立幼稚園には親たちの学習グループがあり、親である私はどこかのグループに所属することになりました。2年保育の1年目には、おはなしを丸ごと覚え子どもたちに語る「すばなし」のグループに、2年目には人形劇のグループに所属しました。当時、娘が卒園してもそれらの活動を続けたいとの思いから仲間を集め、公民館の図書コーナーで月一回、地域の子どもたちにおはなし会を始めました。
おはなしの世界では子どもと大人の間に垣根はなく、わくわく・ドキドキ感を子どもたちと共有するその活動は、むしろ大人である私たちが子どもたちの豊かで新鮮な感性から元気をもらっているという体験の積み重ねでした。
また、私自身が子どもの頃に出合った絵本と再会することもあり、その懐かしさが読んでくれた人の温もりとともに思い出され、おはなしの読み語りを通した子どもと大人のふれあいがとても貴重な宝物であることを実感しました。
けれども、別の活動の中で社会的・文化的に作られていく「ジェンダー」の視点を持ち始めた私にとって、たくさんのおはなしとの出合いは疑問の連続でした。ただひたすら王子様を待ち続けるだけのかわいいお姫様、意地悪な継母など「女性」性の描かれ方に疑問が膨らみ、結果としてお話ボランティアの活動から遠ざかっていきました。
SEANの活動の中でのジェンダーとの出合い 現在、私は特定非営利活動法人シーン(SEAN)の代表を務めています。シーンは、高槻市委託女性学級「かまどねこの会」(1994年発足)の学習会時に保育が必要になったことがきっかけで、1997年、保育サポートグループ「ネットワークステーションとんがらし」という名称で誕生し、2001年法人格を取得した市民活動団体です。
いったん専業主婦として家庭におさまり、子育てを終えた女性たちが、いざ仕事に出たいと思っても今まで担ってきた「子育て」「家事」「介護」がキャリアとして認められず、納得のいく職探しが非常に難しいのが現状です。ましてや、子育て期は特定の地域、特定の人たちとの関わりしかない閉鎖的な状況で、限られた社会の中でどんどん自信を奪われその世界から一歩踏み出す勇気を失くしてしまった女性たちとたくさん出会ってきました。
シーンでは現在でも「サポートとんがらし」事業として、ベビーシッターや一時保育を実施しています。力を無くしてしまいがちな女性たちが関係性の中で相互にエンパワメントし、また「してあげる」「してもらう」といった力関係を作らないよう、有償ボランティアによる会員相互扶助という位置づけで、子育て支援・女性の社会参画支援として事業展開しています。
法人格取得後も「サポートとんがらし」事業を継続しながら、さまざまな角度からジェンダーの視点で事業に取り組んできました。2001年度は民間助成金の交付を受け、2週間限定の「子育てママのグチグチ電話相談」を実施しました。実施期間中75件の相談を受け、その相談内容を分析して報告書としてまとめました。
子育てを通して人間関係に悩んでいたケースは47件。そのうち悩みの対象者として一番多く挙げられたのは、夫(12件)、続いて近所の人(7件)、相談機関等の担当職員(7件)、幼稚園等のママ仲間(6件)。本来は子育ての主体者・協力者・理解者になるべき人たちが、悩みの対象者となっている実態が見えてきました。
子どもの虐待が後を絶たず、2000年度児童相談所における児童虐待相談受付件数の主たる虐待者の割合は、実母が61.6%で実父(23.7%)の2倍以上に及んでいます。その数字の偏りからも、本人の資質の問題として片付けられないジェンダーの問題を感じました。
ジェンダーとは社会的・文化的に作られる性差のことで、持って生まれた性別によって否応なしに着込んでしまう「?らしさ」のことです。女として生まれたからには、適齢期には結婚し、1人以上の子どもを産み育て、しかも世間様から見て「いい子」を育てなければならない。家族の目、近所の目、社会の目だけでなく、自らも自分を追い込んでしまうといった現実が浮かび上がってきました。
その頃、児童虐待の問題だけではなく、後を絶たないドメスティック・バイオレンスや性暴力、男性のリストラ自殺や引きこもりなどの社会問題の背景にもジェンダーを感じはじめていました。また、自分自身の経験からも、大人になるまでに着込んできたジェンダーが生き方を制限し、自信を無くすことにつながっていることに気づき、そのジェンダーを一枚一枚脱ぎ捨て、本来の自分を取り戻すにはたいへん長い道のりを要することも実感していました。
もっと早い段階で気づきを得るための子どもたちへのジェンダー・フリー教育の実施や、ジェンダーの再生産を止めるための調査や啓発の取り組みが、今最も必要なことであるとの考えに至りました。そこで、シーンでは2002年度から「ジェンダーと暴力」をテーマとしたジェンダー・フリー教育「G-Freeプログラム」の開発・教育現場での実施と、絵本をジェンダーの視点で読み解く調査分析の取り組みを始めました。
絵本を読み解く高槻市では、1999年度から4年続きで「高槻市男女共同参画に関する活動補助金事業」が、公募という形態で実施されていました。1年目はこの補助金が内部講師謝礼を計上できないことから応募を断念したものの、2年目以降は「子育て中の女性の社会参画における意識調査と学習による意識変革の可能性について」、「DV防止法成立に伴う大阪府三島地区自治体対応調査」を補助金事業として実施しました。そして、補助金公募最後の2002年度には「絵本とジェンダー」をテーマに申請書を提出することにしました。
「絵本とジェンダー」をテーマとして、ある程度まとまった絵本を調査分析した報告に出合ったことがなく、おはなし会を開催していた頃の疑問を調査したいとの思いが私にはありました。盛んに行われている、子どもたちへの読み語りに「ジェンダー」の視点がなければ、「ジェンダー」が子どもたちに再生産されてしまうのではないか。そして、「ジェンダー」そのものに興味がある人たちには「絵本」との出合いを、「絵本」に興味がある人たちには「ジェンダー」との出合いを作りたいとの思いも手伝って、申請書を提出し、6月には交付が決定され、7月から翌年3月末まで事業に取り組みました。
まず、11月から12月にかけて「絵本の中のジェンダーチェック–女(の子)像・男(の子)像の描かれ方」と題して計5回の講座を開催しました。第1回目は「ジェンダー問題を再考する」という内容で私がお話をさせていただきました。第2回は「子育てとジェンダー」をテ?マに、子ども情報研究センターの田中文子さんに、第3回は「絵本とジェンダー」をテーマに児童文学作家の、ひこ・田中さんに講師をお願いし、第4・5回目は京都精華大学名誉教授の藤枝澪子さんをお迎えして、「調査分析をするために」という内容で具体的な読み込み作業を行いました。
残念なことに、「ジェンダー」に興味がある人と、「絵本」に興味がある人に接点がないことから、講座は満員御礼というわけにはいかず、5回講座を連続で受講した方が少ないという結果に終わりましたが、8名の受講生がその後の調査分析にかかわってくれました。
「『絵本100冊』をどうやって選ぶのか?」が第一の課題でした。図書館に通い『別冊太陽(日本のこころ112)読み語り絵本100WINTER2000』(平凡社)を手にして、そこに紹介されている絵本を図書館で借りられるだけ集め、それでも足らない冊数は『ちひろ美術館が選んだ’親子で楽しむえほん100冊’ちひろ美術館編』(メンツ出版)の紹介絵本から補充しました。
49名の著名人が、思い出のお薦すすめ絵本をそれぞれ2〜3冊紹介する形で『別冊太陽』は編集されており、そこに紹介されている絵本は古くから読み継がれてきた定番が主でした。この『別冊太陽』を選んだことに、講座の中で受講生から賛否の声が上がりましたが、絵本の専門家たちだけが選んだものではなく誰もが比較的よく知っている絵本が集められていたことが、結果としては良かったのではないかと思っています。
絵本の中にあるジェンダー「絵本とジェンダー」についての調査結果は次の通りです。
絵本の著者・イラストレーターともに男性の比率が高く60%弱が男性であり、物語の主人公そのものも男性66%・女性18%・不明16%。人間以外の動物を含めたすべての登場人物の性別内訳を見ても、「男性」性のみが20%・「女性」性のみが1%・「女性」性が補助的に少し登場するもの7%・「両性」が登場するもの65%という結果でした。
それらの内訳の偏りが、著者の性別と関係するのか、出版年代に関係するのかも調べました。女性が著者の絵本は38冊、うち女性が主人公の絵本は8冊、男性が著者の絵本は62冊、うち女性が主人公の絵本は10冊、著者の性別に関わりなく女性が主人公の絵本は半数以下という結果でした。また、調査した100冊には2000年以降出版の絵本が4冊しか含まれておらず、最近の絵本は除外されているものの、60年代〜90年代のどこを見ても、女性と男性が主人公である比率はほぼ1対4という結果でした。
特に、子どもが主人公となっている絵本45冊中、男の子が主人公の絵本は31冊、女の子が14冊と半数以下。その人物像を見ても、男の子は想像力豊かで好奇心・競争心旺盛、行動力に富んでいますが、女の子が主人公の場合は想像力や好奇心が表現されていることが少なく、自己主張し行動的であっても特異な個性として扱われており、お世話役として登場するものが多く、性別による人物像のバランスに偏りが見られました。
また、主人公は男の子の方が多いにも関わらず、関わる大人は「女性」性である母親が多く、子どもが主人公である45冊のうち、母親が登場する絵本は18冊、父親が登場する絵本は10冊で、特に男の子と母親との組み合わせが多く登場します。私自身、短大でデザイン美術科を専攻していたことから、卒業制作で絵本を制作した経験がありますが、やはり男の子と母親を登場させており、男の子の方がより活発に物語を展開しやすいイメージがあったことを思い出します。
今回の調査で、男の子が想像力豊かに冒険の世界で活躍し、最後に現実に引き戻す、あるいは温かく迎え入れる役割を母親が担っている組み合わせがパターンとして存在し、人気のある絵本として定着していることに気づきました。それらの絵本を否定したいわけではなく、女の子も想像力豊かに活躍する絵本や、父親が子育てに関わる絵本が、同じ数だけ出版され、人気のある定番の絵本になってほしいという思いを強く持ちました。
絵本は絵から伝える表現が重要な役割を持ちますが、ストーリー自体に性別の住み分けがないにも関わらず、絵そのものに役割の固定化が強く描かれている絵本もあります。また、海外で出版され国内出版に向けて翻訳された絵本の場合、絵そのものは性別を表す部分がないのに、「I」「YOU」という主語が「わたし」「ぼく」と訳されていたり、「〜だわ」「〜かしら」と女言葉で表現されることで性別が固定化されてしまったと思われる作品も見受けられました。
多様な生き方に出合う絵本を2002年度調査した100冊には、2000年度以降出版の絵本が少なかったので、2000年度以降出版された最新絵本の家族像の調査作業に今取り組んでいます。その調査報告書は、今年の6月末には発行する予定です。従来通りの役割分業が強固に固定化された絵本もありますが、新しい家族像を肯定的に表現している斬新な絵本も出版されています。
ここで、特に私が気に入った絵本を2冊、ご紹介します。
「ママとパパをさがしにいくの」(ホリー・ケラー著・すえよしあきこ訳/BL出版)は里親をテーマに描かれた絵本で、ママとパパはトラ縞、自分はヒョウ柄であることから、ヒョウ柄のママとパパを探しに行くホラスのおはなしです。ヒョウ柄の仲間と出会って楽しく遊んだ後、やっぱり育てのママとパパが恋しくなって家に戻り、「ほんとのママとパパになってね」と言って安心して眠るホラス。家族像の多様化を肯定的に表現する中で救われる子どもは多いのではないかと思います。
「ライオンのよいいちにち」(あべ弘士著/佼成出版社)は、ライオンのおとうさんが子どもを連れて散歩に出かけるというおはなし。ライオンのおかあさんは家族のためにシマウマを追っていて、子どもたちと散歩をしているライオンのおとうさんはまわりから「うらやましい」「感心ね」と言われながら、子どもたちと過ごすことを「楽しいこと」「好きなこと」「普通のこと」と表現しています。自然体で子どもと関わっている姿を、しかも「百獣の王」と言われるライオンで表現しているあたりがとってもユニークです。
今年度読み込み作業を行った新刊絵本は、前回の調査対象となった、これまで読み継がれ生き残ってきた絵本100冊とは状況が大きく異なります。絵本の世界も結局のところ経済の流れの中にあり、読み継がれていってほしい絵本が生き残るかどうかは、それを手にとってくれる多くの人たちの需要にかかっています。
近年、シングル家庭や、再婚家庭、同性愛者/トランスジェンダーのカップル、血縁以外の家族など、家族のあり方や幸せの形が多様化しています。ましてや時代と共に家族形態が移り変わってきたことは歴史的にも分かっている事実であり、「これこそが幸せの家族像」といった表現と現実とのアンバランスは、どこかで誰かを傷つけ否定し差別を生み出すことにもつながっていくことだと思います。多様な生き方がバランスよく表現された絵本との出合いは、さまざまな状況下に置かれている子どもたちや多様な個性を持っている子どもたちの自己肯定感へとつながっていくはずです。
また、子どもたちが物語のどの登場人物に擬似体験するかということも、子どもたちの未来の選択に大きな影響をおよぼします。冒頭にも書きましたが、私には2人の娘がいます。彼女たちがまだ幼かった頃、特に2人目の娘には図書館で借りられるだけの絵本を借りては毎晩読み語りを楽しんでいました。ゆるやかに流れるその時間が、子どもと大人の垣根を越えられる貴重な時間であり、それが読みがたりの魅力であると感じました。
それぞれのお気に入り絵本の種類が異なっていて、娘たちが持つ個性の豊かさや違いに面白みを感じていました。上の娘は、冒険ものや教訓が含まれている物語が好きで、登場人物の性別には関係なく擬似体験を楽しみ、今や21歳になる娘の今やこれからの生き方の方向性と深く結びついています。下の娘は、物語よりも絵の好みがはっきりしていて、かわいく繊細に描かれた絵本を好み、好みではない力強く描かれた絵本には拒否反応を示しました。
読み語りのもう一つの魅力は、絵本を通してその子どもの感性が見えてくることです。話そのものにしろ絵にしろ、性別を意識し、そこに描かれている同性にだけ擬似体験をする子どももいます。その女の子が「きれいでやさしく、ひかえめでさえいれば、いつか素敵な王子さまが現われて、幸せへと導いてくれる」という絵本にしか出合えなかったとしたらどうでしょう。その男の子が「価値観の善し悪しは一つしかなく、自分たちの正義のためなら『悪』を退治してもいい」というおはなしにしか出合えなかったとしたら。
世の中には多様な考え方、多様な生き方が存在し、その多様性を情報として知り得た時に、子どもたちは自らの生き方を選ぶ第一歩を踏み出しやすくなります。また、自分とは違う考えや感じ方がこの世には存在し、その違いを尊重し合うことの必要性を学びとっていくことにもつながります。
たかが絵本、されど絵本。性別による役割が固定化された絵本ばかりに子どもたちが出合っていたのでは、ジェンダーが再生産されてしまいます。絵本を通し多様な生き方・考え方と出合い、「わたしはわたし、あなたはあなたでいいんだ」といった人権感覚を育むことができるような絵本がたくさん出版され、多くの人に愛され、読み継がれていくことを願います。
* 部落解放6月号 2004.535号 解放出版社発行
季刊「女も男も」(女子教育もんだい」改題No.100) 2004夏
(04.07.31)
労働教育センター発行
ジェンダー・フリー教育を出前で
〜NPOでの経済的自立を目指して〜遠矢 家永子(特定非営利活動法人シーン)
労働対価を要求しない自分 あと1ヶ月で22歳になろうとする22年前の2月、グラフィックデザイナーとして勤めていた印刷会社を寿退社し、私は専業主婦になりました。
その1年後に長女を出産し、気がつけば手作りにこだわりながら、育児書片手に子育てに専念していました。
長女が2歳になろうとするころ、夫は独立し、ワンショットバーを開業しましたが、立地条件のまずさから経営はすぐに行き詰まり、店をたたむまでに時間はかかりませんでした。蓄えを使い果たした私たちは、両方の両親の援助を得ながら、ジプシーのようにあちらこちらのフリーマーケットに出向き、不用品や手作りアクセサリー、イラストを描いたGジャン等を販売し、辛うじて生計を立てながら20代の時を過ごしました。
小さな娘を抱えながら、真冬の夜は灯油ストーブを持ち出し、夏の炎天下には帽子を深々とかぶり、アクセサリー等を販売する露天商でしたが、若さ故かそれなりに楽しくもありました。しかし、夜な夜な内職し、販売にも携わっていたにも関わらず、得た収入を夫のものだと漠然と思い込み、自分の働きとしての労働対価を要求しなかったことを記憶しています。
その後、次女を授かったことや、夫の仕事の比重が販売業から卸し業へと移行したことで、私が夫と共に仕事をすることはなくなっていきました。
その後も自宅で子どもの造形教室を約7年間主宰し、少額の報酬を手にしていたものの、経済的自立について深く考えないままPTAや子ども会、生協、親子劇場、平和運動、お話ボランティアなど無報酬の活動に没頭していきました。「経済的自立を考えない」「収入を得ることに自信が持てない」−その根底に、ジェンダーの問題が潜んでいることに自ら気づくのに、ずいぶん時間を要したような気がします。
詐欺で自立に直面そんな中で、私の生き方を左右する大事件が起こりました。バブルが崩壊したころ、卸し先の小売店主が夜逃げし、代金の回収ができず、夫は資金繰りに頭を痛めていました。それでも、どうにかこうにか商売を続けていた矢先に起こったのが、阪神淡路大震災でした。被災地に卸していた商品の代金が回収できず資金繰りに悩んでいた夫は、その弱みにつけ込まれ金融詐欺に遭いました。
もと銀行マンだった男に言葉巧みに金融機関からお金を借りさせられ、そのお金を持ち逃げされるという詐欺でした。心無い詐欺を複数の人たちに行ったその男は、その後捕まり、有罪判決を受け刑に服しましたが、金融機関を相手取った裁判では最後の最後まで勝訴することなく、抵当に入っていた義父母の家は奪われ、夫は一文も手にしていない借金と裁判費用の数千万円を返済し続けることになりました。
一家の稼ぎ手としての役割を一人で負いながら、私の生き方に一切口を挟まない夫に申し訳なさが募る中で、幸か不幸か私は自分自身のジェンダーの問題を解消すべく、経済的自立と向き合わざるを得なくなりました。
現在、私は特定非営利活動法人SEAN(シーン)の理事長兼事務局長を担い、適正といえる額ではありませんが、労働対価を得、少しずつではありますが受け取る報酬額を上げつつあります。
また、それと同時に、経済的自立に向けての自信も回復してきました。
前進は「とんがらし」1997年、高槻市委託女性学級「かまどねこの会」の学習会で、保育が必要になったことをきっかけに「ネットワークステーションとんがらし」を結成したのが、NPOで経済的自立を目指し始めた発端でした。有償ボランティアによる会員相互扶助を主軸とした非営利組織である「とんがらし」は、2001年法人格を取得し、名称もSEAN(Self-Empowerment Action Network)と改めました。目の前に見えてくる様々な問題に取り組む中で、現在ではG-Freeプログラム(ジェンダー・フリー教育)の出前授業を実施するなど多岐にわたる事業に取り組んでいます。
法人格を取得した2001年度、民間助成金の交付を受け、2週間期間限定の「子育てママのグチグチ電話相談」を実施し、計75件の相談を受けました。その相談をとおして、共に子育てを担うべきはずの夫や、同じく協力者・理解者となるはずの親族・ママ仲間や相談機関が悩みの対象となっている現実と直面しました。
核家族化で子育ての経験はなく、儲け主義の教育情報に振り回され、自らも「良い母親像」に縛られ、地域社会から孤立し追い込まれていく姿から、生き辛さや自信の無さ、罪悪感を感じ取りました。
無自覚のまま着込んだジェンダーに気づき、それを1枚1枚脱ぎ、本来の自分を取り戻し自信回復していくには、同じだけの時間を要することは自分の経験からも実感していることです。性別による過剰なとらわれから解放され、「わたしはわたしのままでいい」とあるがままの自分を受容し、自他を抑圧することなく、人生を自分の手で選び取っていけるような、ジェンダー・フリー教育プログラムの必要性をその頃から考え始めました。
また、1997年から5年間SEANと同時並行に、私はCAP(キャップ)スペシャリストとして有償の活動を行っていました。CAPとはアメリカで誕生し、学校教育機関等でNPOが出前で実施している「子どもへの暴力防止」のプログラムです。その活動に取り組みながら、暴力の背景にあるジェンダーをテーマにしたプログラムを模索していました。
「だれもが大切にされる社会」へそんな矢先、民間助成金情報が会員から寄せられ、締め切り間際に慌ただしく申請書を提出し、そのことが組織だってジェンダー・フリー教育に取り組むきっかけとなりました。全国75件応募の中絞られた7件に残り、ファシリテーター養成講座、ジェンダー・フリー教育プログラム開発とパイロット事業実施及び報告書発行までを助成金事業として行いました。
2003年度、再度民間助成金を申請し、幸運なことに全国43件中の5件に残ることとなりました。公立中学校5校20クラスと公立高校3校5クラスの計25クラスでG-Freeプログラムと教員研修18回、公開スタッフ研修の実施、生徒・教職員の意識調査や自治体の男女共同参画に関する現状調査、報告書(A4判・P156/送料込み2000円)発行などを助成金事業として行いました。
「今の時代男女平等は進んでおり、女たちは強くなった」と言う人がいます。確かに、一見女生徒は元気に見えます。しかし、今回の生徒たちの意識調査から見えてきたのは、一昔前と変わらない生徒たちをとりまくジェンダー社会の現実でした。「男女間に不平等はあると思いますか?」という質問に対して「ある」と答えた生徒は、プログラム実施前66%、実施後では75%で、女生徒に限れば80%ちかくが「ある」と答えました。「社会では女の価値が低い」(女子高生)、「男子は仕事、女子は家事と決め付けられている」(男子高校生)。
「女」が「人」としてではなく「嫁」「母」として期待され過ぎることでのあきらめ・反発や順応、「男」が「主」として期待され過ぎることへの優越感・不満やそれに応えられない自他への抑圧などがアンケート調査から読み取れました。
また、G-Freeプログラムをとおして、生徒たちが自己と向き合い気づきを得た様子も読み取れました。報告書には生徒の全コメントを掲載していますが、自由記述から2つご紹介します。「ジェンダー・フリーはまず自分が他人を尊重し、理解していくことから始まるんだと思いました」(女子高校生)、「自分の生き方は自分で決めたいと思った」(男子中学生)。
「あなたはあなたのままでいい」「あなたの大切な人生を、切り開いていける力があなたにはある」。社会をジェンダーの視点で読み解き、自らのジェンダー・アイデンティティを築きなおし、多様な生き方を肯定し、暴力以外の方法で共存していくことを子どもたちに投げ掛けるために、これからもG-Freeプログラムを実施していきたいと思っています。
NPO活動での経済的自立は容易いことではありません。活動の対象者が社会的弱者である場合も多く、取り組みに対して予算化されていることは稀で、無償こそが美しいといった価値観が未だに根深く存在しているからです。環境破壊や浪費、軍事力強化に費やしてきた経済の流れを変えていくことも、NPOを運営するものの務めだと私は思っています。
弱者支援などの人権に関わる取り組みを担う労働力に金銭的評価を与え、人材を確保し活性化していく、その繰り返しの中で経済が緩やかに流れていくことが、「だれもが大切にされる社会」への第一歩であると思っています。
季刊「女も男も」(女子教育もんだい)改題no.100 2004 夏 労働教育センター発行
特集 私流で生きる
花の会ニュース 第120号 寄稿
(04.10. 1)
誰もが人としてあたりまえに暮らせるまちNPO法人SEAN(シーン)代表 遠矢 家永子
「障害者がまちで暮らす」をテーマに、「花の会ニュース」の原稿を書いて欲しいとのお話を伺った時、正直いって「なぜ、私に?」との思いをもちました。私自身が障害のある方と日々関わっている訳ではないし、私が代表を務めるSEANの事業である保育サポートで、障害の有無にかかわらず多様な子どもたちを受け入れることを模索してはいるものの、『障害者』をメインテーマに取り組んでいる団体ではないからです。
ひょっとしたら、「ボランティアグループありんこ」に所属している私の娘と私とを間違って、「遠矢さん違い」でご依頼いただいたのではないかとの思いが浮上し、改めて確認させていただいてからようやく執筆に取り掛かったという次第です。前置きが長くなってしまいましたが、「障害」があるということに深く関わっていないという立場で、私が感じること考えることを少しまとめてみようと思います。
それぞれが抱える「障害」というものはとても多様です。その上、その方と関わる側の経験や認識不足から、どのように関わればいいのか戸惑ってしまう場面がたくさんあります。それ程に、日常の中での障害のある人たちとの接点は、当事者やその家族ではない限り、意図して作らなければ作りにくいといった現状があります。
また、社会は何かにつけ人を分類したがります。同じ種類の課題を持つ者同士が、共感し合い支え合うためにつながることはとても意味があることです。けれども、多様な状況を理解し合い共存させることも大切なことで、それが日常の中でありきたりな風景にならなければ、自分が所属していない部分においては他人事になってしまいますし、どのように関わればいいかが不安になり、より距離をあけてしまうことにもつながります。分類することは少数者をつくることをも意味し、少数者の思いや意見は反映されにくく、多数者が意識して目を向けなければ差別や排除が生じます。当事者や当事者と直接関わる人たちだけの問題にしていることで、抜本的な課題解決にならないといったことがあちらこちらで起こっているようにも思います。
ある講演会で講師の方が、「障害者」と「健常者」を「もうすでに障害のある人」と「まだ障害のない人」と表現されているのを耳にしました。「誰しも老いれば何かしらの障害が生じる」というのが彼女の見解で、私はその時「障害」を人事として捉えないこと、様々な所属をはずし先入観や思い込みをなくし一人の人として関わりを持つことの重要性を認識しました。
障害の有無・性別・年齢・職種や所得にかかわらず、誰もが持つあたりまえの人権が保障されるまち・国になればいいなと思います。当事者もその家族も、そして第三者も、互いの思いを出し合い理解し合う努力をし、息切れすることのないようそれぞれが望むことを主張し、相互にできることを少しずつでも形にかえていければと思います。そのためには、第三者的な人たちが境界線をはずし、気負うことなくあたりまえのこととして、障害のある人たちと日常を共に過ごせるまちを具体化していく努力が必要なのだと思います。
花の会ニュース 第120号(2004年10月1日発行予定)